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広重・東海道五十三次の謎
広重の代表作である「東海道五十三次(保永堂版)」。
誰でも知っている有名な作品であり、広重自身が東海道をスケッチ旅行して描いたもの、とされています。
しかし最近の研究によるとそれは間違いで、実際には広重は東海道を旅せず、他人の絵を模写して作られたのではないか、という疑惑が持ち上がっています。
ここでは、当サイトなりの考察を踏まえて、広重東海道五十三次成立の謎に迫ってみたいと思います。
広重は東海道を旅していない!?
さて、広重の東海道五十三次は、従来の説に依るなら、天保3年8月、幕府の八朔御馬に供奉して東海道を江戸から京都まで旅した時に描かれたことになっています。
しかし実際にその絵をよく見てみると、たとえば「京」で描かれる三条大橋の橋杭が、実際には石製でなければならないはずが木製になっていたり、八朔つまり8月1日の真夏に東海道を旅したはずなのに「蒲原」ではなぜか雪景色を描いていたりと、絵の描写にいくつか疑問点がみられることが以前から多くの研究者により指摘されてきました。


また、「荒井」や「関」には、3次元的にはありえない構図で描かれている部分がみられることなどから、「実際には広重は東海道を旅せず、他人の絵を模写して描いたのではないか」というのが近年では定説となりつつあります。


確かに、広重が旅をした記録を探しても、現存するのは天保12年4月の甲斐旅行、天保15年の上総旅行、嘉永5年の上総~安房旅行の僅か3点の日記のみで、東海道を旅した記録は一切残っていません。
さて、広重ははたして本当に東海道を旅したのでしょうか?
また、もし他人の絵を模写したというのであれば、いったい誰の、どの絵を元にしたのでしょうか。
これから検証していきたいと思います。
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